2017年7月17日月曜日

2017/6/17 羽田・蒲田巡検

こんにちは。早稲田大学大岡山キャンパスに通う大学3年生です。
去る6月17日(土)に、大田区南部(羽田~蒲田)で巡検のナビゲーターをさせていただきましたので、ここに報告させて頂きます。

【ルート】
京急空港線天空橋駅→羽田空港(遠景のみ)→稲荷橋→ヤマト運輸羽田クロノゲート→鈴木新田跡(平和大鳥居)→赤煉瓦堤防→羽田猟師町→大師の渡し跡→京急空港線大鳥居駅→🚋→京急本線梅屋敷駅→梅屋敷跡→呑川・六郷用水→アロマスクエア→映画館街跡→新潟鐵工所・黒沢製作所跡→東急・JR蒲田駅

 梅雨入りしたとは思えないような晴天と暑さの中、天空橋駅にお集まりいただきました。
 駅の空港側の出口を出ると……
 羽田空港が見えます。今回の巡検で外すことのできない存在ですが、メインではありませんので今回の出番はこれだけです。
 今度は天空橋駅の反対側の出口を出ると……
 海老取川に架かる天空橋、その向こう側はすぐ住宅街です。二つの出口で駅前の様相が全く異なります。
 この天空橋よりも北側に架かっているのが、稲荷橋です。
  この橋、実は向こう側はほぼ行き止まりになっています。一体どういうことなのか、謎を残したまま先に進みます。
 海老取川沿いを北に進み、環八を西に曲がると、羽田クロノゲートが見えてきます。
 2013年に竣工したヤマト運輸の物流施設です。ハブ型の物流ネットワークの要となっており、24時間で稼働しています。写真からも少し見て取れるとは思いますが、環八に面した側は和モダンを基調とした庭園になっている他、敷地内には体育館もあり、地域住民に向けて一般開放することで地域との調和を図ろうとする意図が見て取れます。
 羽田より少し北側には、流通センターを中心として物流施設が立ち並んでいます。その中でもとりわけ羽田に近いこの場所がまた新たに物流施設となったことに、羽田空港のポテンシャルの高さが伺えるのではないのでしょうか。

 今度は来た方向と逆方向、多摩川の河口方面に向かいます。
  クロノゲートのすぐ南には穴守稲荷神社が鎮座しています。因みにこの付近には稲荷神社が多く見られますが、理由は後述。また、穴守稲荷神社も最初からこの場所にあったわけではありません。

 途中海老取川沿いにこんなものを発見しましたね。かつては海老取川沿いギリギリのところを空港のB滑走路が走っていたため、飛行機からよく見える川沿いには多くの広告が立っていました。しかしB滑走路が川から離れたところに移転し、今ではそのほとんどが役割を失って姿を消しました。そんな広告のひとつが骨組みだけになった姿です。
 多摩川の河口付近に見える大鳥居は、穴守稲荷の一の鳥居です。
 元々羽田空港のある土地は鈴木新田と言い、江戸時代に羽田の地主主導で開発された場所です。開発されてから終戦までは、鈴木新田には3つの町があり、住民もいました。この場所の守り神として祀られたのが穴守稲荷神社です。
 明治期に入ると、眺望の良さや潮干狩り、穴守稲荷への参詣などで鈴木新田は行楽地として大きく栄えました。先ほど紹介した稲荷橋は元々穴守稲荷の参道だった橋だったのです。羽田空港の前身となる羽田飛行場は昭和初期に開設されました。
 しかし太平洋戦争が終わると、GHQがエアベースとして羽田を接収することになり、鈴木新田の住民全員に対して48時間以内の立ち退きを命じました。1945(昭和20)年9月13日の出来事です。穴守稲荷も鈴木新田の外側に遷座することになりました。が、一の鳥居を取り壊すタイミングになって、工事中の事故や航空事故が多発するようになり、いつしか鳥居は壊してはいけないものだという風に囁かれるようになりました。しかし、場所はターミナルビルの駐車場前であり、非常に邪魔だということになって、現在の場所に移転された、ということです。

 ここから、羽田の猟師町へと入っていきます。
 羽田の漁港です。中世から漁業が続けられ、江戸時代以降は海苔の養殖で栄えましたが、ノリの養殖地をめぐっては大森側と何度も対立していたようです。現在は自由漁業でアナゴ漁などが存続しています。
 また、少し内陸に入ると、昭和初期に整備された赤煉瓦堤防が今でも残っています。多摩川の氾濫によって羽田猟師町が何度も打撃を受けていたことから整備されましたが、漁業の町羽田にとって、海との繋がりはなくてはならないものであり、堤防の高さも腰ほどまでになっています。また、羽田の各町会ごとに陸閘が設けられていたり、今でも残っている陸閘は船溜まりに続いている場合もあり、その当時からの街の文脈を見て取ることができます。
 もうひとつ、羽田の猟師町は街路の形に特徴があります。従来の港町は、海岸線に垂直に道路が通っており、猟師町の西半はその通りに道が走っているのですが、東半分は垂直よりもすこし傾いて道が通っています。昔は現在クロノゲートがあるあたりは海の中で、猟師町の北側が漁業の拠点であり、そちら側の海岸線に垂直になるように道が作られたという説はありますが、証拠が十分ではないため、何とも言うことができません。

 そういえば先ほど触れた稲荷神社の数の多さですが、穴守稲荷を中心に羽田七福いなりなるコースが設定できるほどこの一帯には稲荷神社があります。個人邸宅内に祀られたものを含めると、相当数にのぼるようです。これは、羽田猟師町が木造住宅の密集地帯であり(特に赤煉瓦堤防の堤外地は鈴木新田からの移住者が多く密集していた)、火守の神としてお稲荷さんが多く祀られたという経緯があります。

 羽田篇、最後は多摩川に架かる産業道路の大師橋です。この橋のあたりには、かつて大師の渡しといって渡し舟がありました。大正初期までは、多摩川は河口から登戸あたりまで道路橋はかかっておらず、全て渡し舟でした。江戸幕府により架橋が制限されたためです。しかし、急速な都市化を受けて昭和2年に二子橋が開通したのを皮切りに、多摩川にも次々と橋が架けられて渡し舟は消滅していきました。ここ大師橋も1939(昭和14)年に開通し、大師の渡しは廃止されました。

 羽田篇はここまで。大鳥居から梅屋敷まで京急で移動です。

 蒲田篇の最初は梅屋敷跡からです。
 元々蒲田は東海道沿いの農村に過ぎませんでしたが、江戸末期に梅園が整備され、明治天皇をはじめ多くの文化人に愛されたということです。現在呑川にかかるあやめ橋のたもとにも菖蒲園があり、鈴木新田同様に行楽地として愛されるところから蒲田はスタートしています。
 この道、要するに暗渠です。六郷用水のひとつである逆川が通っていました。
 幕府が江戸に移って来るにあたって、食料不足が懸念されるということで、多摩川のデルタ地帯を農業地帯にしようということで整備されたのが六郷用水です。
 そしてこの道をまっすぐ進んだところにあるのが、
 アロマスクエアと呼ばれる再開発エリアです(写真は区民ホールアプリコ)。
 元々この場所には、高砂香料工業の工場が、更にその前は松竹蒲田撮影所がありました。蒲田行進曲でお馴染みの方も多い(?)かと思います。都心に近くて閑静な場所を求めてこの場所に撮影所を置いたのですが、同時期に町工場や後述する工場群が発展したことでトーキー映画の撮影に支障を来すようになりました。撮影所が大船に移るまではたったの16年でしたが、日本の映画界の黎明期をリードした大切な施設だったのです。
 先ほどの逆川に架かっていた「松竹橋」の親柱が、現在も館内に残されています。大正末期から昭和初期にかけて、蒲田は最先端文化の発信地だったんですね。
 今は見る影もありませんが、その頃の地図を見ると蒲田駅東口には映画館街があったことも確認できます。

 他にも、最先端の発信地だったことを伺える場所があります。現在都立蒲田高校や蒲田本町一丁目団地があるあたりには新潟鐵工所の工場がありました。今までの工場とは異なる、近代的なフォルムが当時話題となったようです。他にも、富士通ソリューションスクエアのある場所は黒沢製作所(和文タイプライターの工場です)がありました。ここは工場内に自家菜園や社宅、果てには学校まで揃えた職住近接型の近代工業都市の姿を見ることが出来ました。

 他にもまだまだ色々な所を回りましたが、そろそろ読んでいる方も書いている僕も疲れる頃ですので、ここまでにしたいと思います。ひとくちに下町と言えど、近接しているのに全くカラーの異なる二つの街をお楽しみいただけたらなと思います。

 最後になりますが……私は早大生ではなく、地理研に加入したのも2年の6月でしたが、地理研の活動は楽しいだけでなく、加入して以来色々な刺激を受けて視野が広がっております。もしちょっとでも地理研の活動に興味のある方は、是非ご連絡下さいませ。
 駄文長文失礼いたしました。